布施の歴史について調べています。情報があればメール下さい

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布施
 地名の由来

布施地名の由来:布施という地名は、近代にはなく、謎の多い地名であるが、日本全国では、多くあるのも事実
布施の地名の由来は、奈良時代の東大寺大仏建立の時の河内における建立従事ボランティアの福祉施設である「布施屋」であるという説、(現在も布施という意味は宗教的な分野で使用されている)
英語ではFUSEと書いて、ヒューズと読む---「火薬を爆発させる信管、雷管」という意味
参考文献:大門昌博著 「布施の研究」 布施地名発祥由緒考 全国布施地名総覧
足代
(あじろ)

足代連合:東足代村の資産管理組織 旧村組織名
足代だんじり:足代だんじり(昭和30年代までは、各村にだんじりがあったが布施駅周辺地域では、現存する唯一のだんじりとなった。このだんじりも平成12年11月には廃棄され、約1億円を投じ、新調足代だんじりへと移行する予定)布施駅南側小屋に常時展示されている。 
足代笠:
長堂
(ちょうどう)

長堂会:永和村方長堂村の資産管理組織 旧村組織名
浄光寺:浄光寺(1994年までは現在のビブレエントランスホール)あたりにあり、現在は、長堂小学校北西側に移転している。大歳神社跡も当時はビブレの同位置にあったが現在は存在しない。

(だんじりについて)
 だんじりは、一般的には、村単位の所有が圧倒的に多い。それは、だんじりそのものが非常に貴重な部材を使用し、細工も精巧なため高価であるため、村の住民からの寄付で造ったものが多い。
 但し、旧他村のだんじりと長堂村にあっただんじりの違いは、だんじり、小屋ともすべて、特定個人の財産であるということである。この地区には昭和三五年までだんじり、小屋があったが、処分は当然のこととして、所有者が行った。自治会や村の所有ではなかったし、だんじりの通常の運営においても、自治会や一般住民に、だんじり運営の経費を募ったことはなく、個人の善意で長堂だんじりを楽しんでもらったものである。
私財を提供して地域の福祉に貢献した人々が居たという事実を忘れてはならない。
(長堂村のだんじりの歴史的推移)
 明治三八年三月(九三年程前)、長堂村在住の青年たちがだんじり購入を請願したので、有力者(元庄屋)、村の役員などか、協議した結果、金に余裕がなく、貧乏な村であったため寄付を募るのも問題があるということになり、村の親睦の一助になればと発起し、五人の世話役が自前の資金を出すことにし、岸和田まで徒歩で行き、同地で中古の安いだんじりを買い求め、長堂まで引っ張って持ち帰った。その時のすべての費用一切は、五人で分担した。
 購入後、年一回秋祭りだけ旧村を引き回したが、中古品のためよく破損した、なかでも、木製の車輪の心棒も木製であったので、よく折れ、運行中止が再三あった。
 以降戦争が激しくなってきたので戦時中は、運行中止、戦後しばらくは、物資不足のため維持が困難となり、わけても交通事情悪化のため運行中止を余儀なくされた。その間、小屋も雨漏りが激しく危険となり、限界が来たので所有者五人が協議の末、処分することとなった。
 業者や方々の知人に頼んで引き取り手を捜したが、このだんじりを修理して復旧するためには金五百万円ほどかかるということで、引き取り手もなく、業者(昭和三五年)にただでもらってもらうこととなった。もちろん、だんじり小屋も業者に依頼し、解体してもらったが、その経費についても一切を世話人五人が負担した。
都留彌神社
つるみじんじゃ)

大正3年 永和長堂村、東足代村、永和村、等を含め他に数村の神社を統合し荒川]村地区(荒川小学校の前)に置いたのが起源
現在は、布施駅南北周辺地区全域の氏神となっている。
都留彌神社の名称は、東足代村にあった氏神の名称を各村の合議の上、決定された推移がある

醍醐天皇の延喜10年(910)に大干ばつがあり、天皇もこれをご心配され、河内国の十二社に勅使を派遣され雨乞いをご祈願された。そのとき、神応があって喜雨が至り農民を助けたので、天皇もこの奇跡を喜ばれ親しく御拝あって、都留弥神社の社号を賜ったと伝えられる。

 御祭神は速秋津日子神・速秋津比売神・推古天皇・菅原道真公である。
宮ノ下遺跡
(みやのしたいせき)

1992年に東大阪市長堂1の布施北口駅前再開発事業の駅前交通広場及びヴェル・ノール布施複合ビル建設予定地で発掘された。中世遺構、縄文・弥生時代の遺物、大規模な貝塚が発見され、ヴェル・ノール布施は1年以上建設が遅れた。
遺物の一部は、ヴェルノール布施5階のFリージョンセンター入口右側エスカレーター上陳列に展示されている
大歳神社
(おおとしじんじゃ) 

現在のビブレ入り口付近にあつた神社で神社統合により大正3年に都留彌神社に移行し、跡地だけがあったが、ヴェル・ノール布施再開発事業により存在は消滅したが、管理組織としては旧長堂村の住民子孫により長堂宮会が残存し、現在は、宮敷地及び長堂墓地の管理運営を主に長堂会と称し現存する
 旧長堂宮跡(大歳神社)の由来
 長堂一丁目九十番地にあった旧長堂宮跡(大歳神社)の由来から始まる。
 昭和五十五年十二月二十日没の茨木武三郎氏が生前に古文書、その他の資料をもとに調査され、今日それを整理して次のようなことが明らかになった。
 この長堂地区がまだ、村落を形成していなかった西暦千六百年(関ヶ原合戦)以前は、この長堂地区に居住していた少数の土着民が、木綿や麦をつくり歴史の中で細々と暮らしてきて、村という形態を作りかけていた。
 そんな中にあって、村として住民の信仰、親睦、福祉、祭事の諸行事を行うについて、宮座(責任役員)の必要性を認識し、六人を選出し、その運営に乗り出したのである。
 宮地と言っている一丁目九十番地の所有者であった茨木家の寄進で、この地五五坪を六人の宮座が譲り受けた。
 江戸時代(天明四年、西暦一七八〇年)に牛頭天王宮株の連判帳が作成されており、当時の所有者宮座六人の人名がはっきり記録されている。
太兵衛、五兵衛、吉右衛門、源兵衛、仁左衛門、数右衛門の計六名がそれである。(この連判帳は、吉右衛門宅に保管)
 その後、明治四〇年まで、茨木武次(故茨木武三郎氏の祖父)が大歳神社の神官として預かっていたが、大正三年に政府の政策により、長堂村、足代村、荒川村等が合議して、現在の荒川にある都留弥神社に併合した。都留弥神社の名称は、足代村にあった神社名に由来する。現在の足代地区にある布施戎神社は、足代村の神社跡地である。
 これを契機に、宮地跡の今後の処遇について協議された結果、当初この土地を購入した六人の所有権を確認、以降その子孫、又は、血縁者がその土地の登記名義人となることになった。但し、村の不文律で登記名義人であっても未来永劫、各個人の単独所有権は主張しないことになっている。宮地に関する一切の運営は、長堂宮会である。布施駅北口再開発ビル建設事業以前より長堂宮会は、宮地を店舗及び駐車場に賃貸しており、再開発事業開始によって賃貸関係は解消した。
 尚、この宮地周辺から、平成四年の布施駅北口再開発事業の工事開始にあたり、市、府教育委員会の遺跡文化財試掘調査により、縄文・弥生時代を含む大規模且つ貴重な遺物が偶然発見された。発掘調査のため、建築が一年以上も遅れた現実がある。
 大歳神社の由来や字名から「宮ノ下遺跡」と銘々され、二千年以上前から人間の生活の場であったこの長堂地区が非常に歴史ある地域であると実証された。
布施戎神社
(ふせえびすじんじゃ)

足代村にあった神社で元の名は都留彌神社であったが大正3年に統合され荒川村に移転した。
その神社跡に昭和20年初期に布施戎神社と改名し、布施の戎さんとして、親しまれている。約20年前から「福娘コンテスト」も実施されており、選ばれたミス福娘も戎っさんに参加、1月9.10.11日は年々賑わいを増している。

<広辞苑より>
えびす【恵比須・恵比寿・夷・戎・蛭子】(エビス(夷)と同源)
七福神の一。もと兵庫県西宮神社の祭神蛭子命(ヒルコノミコト)。海上・漁業の神、また商売繁昌の神として信仰される。風折烏帽子(カザオリエボシ)をかぶり鯛を釣り上げる姿に描く。三歳まで足が立たなかったと伝えられ、歪んだ形や不正常なさまの形容に用い、また、福の神にあやかることを願って或る語に冠し用いたともいう。
記紀神話で,伊弉諾命(いざなきのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)の子とされる。古事記では伊弉諾・伊弉冉が日本の国土を生み成す際,国土と認め得ぬ失敗児,日本書紀では統治者の資格を欠く不具児として位置づける。ひるのこ。
布施市と東大阪市
1967(昭和42)年2月1日布施市と河内市と枚岡市の三市が合併して東大阪市となる現在人口約52万人。旧布施市における最大の商業集積地は、布施駅周辺
荒川小学校
長堂小学校・三ノ瀬小学校
長栄中学校

荒川小学校は、布施市時代の第一小学校で東大阪市では最も古い小学校
長堂小学校は同第二小学校
長栄中学校は布施市時代は、布施第一中学校
大阪電気軌道
  近畿日本鉄道の前身

奈良線は、近鉄の前身である「大軌(大阪電気軌道)」の最初の路線として1914(大正3)年4月30日、上本町〜奈良間が開通。開業から9月30日までの154日間の営業成績は、乗客数167万73人(1日平均1万845人)、収入26万2,206円16銭(1日平均1,702円64銭)、走行キロ93万2,311キロ(1日平均6,053キロ)
更新 2000/11

資料

奈良線は、近鉄の前身である「大軌(大阪電気軌道)」の最初の路線として
1914(大正3)年4月30日、上本町〜奈良間が開通。



布施駅(地上駅時代)に停車中の420(元モ211形)、1956(昭和31)年11月  

沿線