旧布施第一デパートの推移     現在の概況

                      布施商店街連絡会
主 旨

 布施駅北部商店街内にある旧布施第一デパートが昭和57年閉鎖、昭和61年12月に売却、転売の後、係争に巻き込まれその運用計画は凍結、長期に渡りその保安上また商店街の運営上等において、地域は多大な迷惑を被っている。この間、東大阪市他各関係機関に対し、再三の陳情等を行ってきたが、何らの活用がなされないまま今日に至り、商店街の財産である集客性を考えると多大な損失を招いている。
 本物件について、平成14年暮れマンション業者が買い取り、分譲マンション計画を行う旨の連絡がある。本物件の過去の歴史も踏まえた上で、商店街に面する部分に、公共性が高く、地域・商店街の長年の迷惑・損失を癒す施設計画を東大阪市にも要請している。

旧布施第一デパートの経過

 昭和42年2月に東大阪市が誕生し、それ以降、近鉄布施駅周辺の近鉄線高架事業、および近鉄布施駅周辺の街路整備事業が実施された。
 それに伴う駅前商業施設整備事業の一貫として、近鉄布施駅北部商店街に位置する旧布施第一デパートは東大阪市開発公社が事業主体になって建設され商業ビルとして昭和40年代後半に開業した。
 但し、昭和50年代になって、その雑居ビル形態の不完全さや商圏の拡大による、郊外型商業施設の分散化等により、雑居ビルの宿命ともいえる優良テナントの占有の低下による集客力低迷のため、昭和55年以降急速にその商業施設としての求心力が薄れてきた。 公社は、ついにその閉鎖を決定し、57年9月に全面閉鎖をした。
 閉鎖後、地域住民や北部商店街は、東大阪市開発公社に対し、早急なる事業再開を申し入れてきたが、解決はなかった。途中、一括売却の話も数件あったが、すべて不調に終わっている。
 昭和59年になって北部商店街は、市長、市議会議長宛に、第一デパートビル早期再開と文化施設の設置を陳情した。昭和60年には、市に正式な要望書を提出し、市も経済部長を窓口に指名し、振興事業の具体策について検討することを約束し、地元商店街も検討委員会(布施駅周辺地域商業近代化計画策定委員会)を組織し対応したが、昭和61年12月になって、突然、東大阪市開発公社は、地元商店街に何の打診、説明もなしに、業者との間に売買契約を締結し、引き渡しを完了した。
 以後の東大阪市開発公社側の説明によると、早期再開についても約束、指導しているとのことであったが、地元商店街としては、買い主の業者に早速に説明会を依頼したが、その説明会では、同年の春先には再開の事業計画を発表するとのことであった。
 しかし、昭和62年5月になっても計画発表はなく、同年6月には、公社との売買契約での転売禁止条項を無視し、業者から第三者業者に所有権が移っていた事実が発覚した。
 このような地元地域無視の当事者の行動に対し、7月に、布施駅北部商店街連合会役員中心となり、東大阪市および東大阪市開発公社に抗議行動を実施、現場には、抗議看板を設置した。
 以降マスコミ等で土地転がし疑惑として取り上げられる。その間、特定団体からの宣伝看板等の商店街運営上支障となる行為があったため、商店街は、自衛策として、やむなく当該跡地前に壁画付の塀を完成させ、跡地の美観を保った。
 平成元年になって、東大阪市議会でもこの問題について、再三百条委員会が開催されたが結論は出ず、根本的な問題は解決に至っていない。
 以降、最初の業者及び第三者の所有者と東大阪市開発公社との係争があり、その開発計画は、凍結した。
 続けて、第三者の所有者の債権者による産業廃棄物等の投棄があったり、浮浪者の占有、不審火等々があり、地域住民も含め大変迷惑した経緯がある。商店街は、平成4年より始まった布施駅北側駅前広場周辺の再開発事業についても一定の距離を置き、平成8年3月のビブレを核店舗としたヴェル・ノール布施の開業に際しても、第一義に旧布施第一デパート問題早期解決のための対策を提案し続けてきた。
 その後、整理回収機構(RCC)の管理期間が相当期間あり、その間、おおむねマンション業者からの引き合いが多数あったとのことであったが。条件等での折り合いがつかず不調に終わっている。最近になって、やっとRCCとの間で、平成14年10月、マンション開発業者によって、売買契約が成立した。
 旧布施第一デパートは、その閉鎖後、20年間の有為曲折を経て、このたび、マンション業者により再開の目処が立った。マンション建設については、地域住民、商店街一同何の異論もなく、再開に向けての助力を惜しまないところである。
商店街による美観管理のための壁画   clickで塀の中見えます
商店街イベント会場に利用
昭和62年頃 団体ポスター
自転車・ゴミの不法投棄