年表
(1982年)
昭和57年 9月 布施第一デパートビル閉鎖        
昭和57年11月 東大阪市役所 本庁
陳 情   東大阪市長・(財)東大阪市開発公社理事長に対し、早期再開要請    
昭和58年 9月26日
       北部商店街総会において ○○アパレル株式会社に売却決定説明会
昭和58年10月 東大阪市役所 本庁
陳 情   東大阪市長・東大阪市議会議長に売却不調により、善処と早期再開要望
昭和59年 3月 東大阪市役所 本庁
陳 情   東大阪市長・東大阪市議会議長に早期再開と文化的施設の設置要望
昭和60年 2月 8日  懇 談  再開発構想懇談会 
昭和60年4月24日  懇 談  振興策協議  
昭和60年5月28日  懇 談  東大阪市長に要望書提出 経済部長を窓口に指名、 目標に民活か公共かの結論約束
昭和60年7月 2日  活性化対策 C.I企画と商店街活性化コンサルタント契約
昭和60年 8月28日   懇 談   東大阪市経済部・北部5番街役員で、旧布施第一デパートビル公共再建案説明・検討
昭和60年 9月17日  C.I企画 企画書仕上がり報告
昭和60年10月28日  報告会   市議 9月市議会において旧布施第一デパート公共施設について報告と利用計画説明
昭和60年11月12日  民活計画  全館公共施設では商店街活性化にはつながらない。この際、民活の導入を再考方申し入れ
大都興業紹介、説明会
昭和60年11月28日  説明会   大都興業 第2回説明会 一部公共施設案共に不調
昭和60年12月 6日  活性化会議   北部5番街の再結集と団結を図り、対外交渉に当たる連合体の結成を決議
昭和61年 5月 8日  東大阪市長選挙立候補者に公開質問状送付
昭和61年 5月18日  各候補より旧布施第一デパートビルの対処方解答書到着
昭和61年 5月27日 布施駅北部商店街連合会 結成総会 於 嵯峨
昭和61年 6月20日  布施駅北部商店街連合会第一回開発部会開催、市・公社の手で解体し、更地として民間に払い下げ、早期再建に向かって進むよう意見集約し、市経済部に申し入れ 
昭和61年 8月    布施駅周辺地域商業近代化計画策定総会委員会発足 旧布施第一デパート活性化に関するヒヤリング調査に期待

※この間、公社は、商店街に何の打診/説明もなしに※伸鰍ニの売買契約を締結し、この年の12月には、売買・引渡し完了していた。 
昭和61年12月 9日   旧布施第一デパートビル払い下げ売却の挨拶 開発公社専務、飼い主の○伸且ミ長外1名来訪
※これをうけて、商店街連合としては、現状の掌握のため、年明けに至急説明会を開催するよう市経済部に仲介を依頼した
 
昭和62年 1月 7日  売却説明会   開発公社理事長より、※伸鰍ヨ払い下げ、売却について説明、公社によると「相手方は相当な資産家であり、絶対信用出来ます、転売規制もあります、早期再開についても指導指定来ますので御安心ください。」という内容で自信たっぷりに説明 

※このあと、買い主の※伸鰍フ説明会を同様に開催依頼
昭和62年 1月 9日  開発説明会   
○伸鰍フ社長より現在開発計画策定中、花の咲くころ(4月)に計画発表予定と説明
要 望  東大阪市長の申されるとおり、活力ある文化の香り高い、周辺環境に充分配慮した開発計画を要望、早期再開を重ねて願う

※5月になっても、※伸鰍謔阨ヤ答がなく、場外馬券場誘致の計画があるという 「ウワサ」が流れる。連合会は、説明会開催を要求

昭和62年 5月14日  第2回説明会  ※伸鰍謔闖鼕O馬券売り場誘致はない、ただし、開発計画は、作成中と説明、別に連合会に解体整地を要望するが、土地ころがし的な発想のため、拒否し、連合会が再開発計画の提示を強く求めたため話合い不調
※このあとすぐに、※伸鰍ヘ、第三者に所有権を移転した事実が明るみに出、事態は混迷する。

昭和62年 6月10日  開発部会開催   昭和62年 5月29日に旧布施第一デパートビル跡地が協伸
     議 題     より他に所有権が移転したことに対する対応策協議

昭和62年 6月26日  北部連合会 東大阪市、東大阪市開発公社の責任追求と連合会としての常任理事会開催 対応策協議
昭和62年 7月 2日  北部連合会 東大阪市議会 百条委員会委員長 叶氏を招き、市議会と常任幹事会開催  連体して、東大阪市と開発公社の責任追求と問題の早期解決と跡地の早急な再建、再開協力を委員長に要望
昭和62年 7月 6日 北部連合会 東大阪市と開発公社に対しての抗議行動と決議文作成、常任幹事会開催 抗議日程を決める
昭和62年 7月 7日 北部連合会 抗議行動の準備作業打ち合せ、作業分担取り決め常任幹事会開催 

※このころよりマスコミで、土地転がし疑惑として、全国的に取り上げられる
(1987年)
昭和62年 7月10日 東大阪市本庁および開発公社事務所
抗議行動 北部連合会役員35名、小型バス・乗用車に分乗し出発、抗議の鉢巻と横断幕、抗議ビラ300枚で市庁舎周辺 よりデモし、午前9時30分東大阪市本庁において、東大阪市長に決議文を朗読、手渡した
午前10時10分(財)東大阪市開発公社に抗議文を朗読 手渡したあと、午前10時30分布施着、解散また、旧布施第一デパートビル跡地前には、抗議看板5枚を立てる

その後の経緯
(1989年)
平成元年10月4日(水) (仮称)「旧布施第一デパート早期再開発協議会」設立準備会  出 席 者 計13名
  東大阪市 東大阪商工会議所  東大阪市小売商業団体連合会  東大阪市商店会連合会  
  東大阪市小売市場連合会   布施駅北部商店街連合会     欠 席 者  協和地所

  北部商店街の中央に位置している旧第一デパートの閉鎖より、すでに7年間が経過しようとしている。この間、商店街販売促進活動を強力的(過去10年間の販促費累計約4億円)に推進したが甲斐もなく効果は、半減している現状がある。
 これは、旧第一デパートの閉店の影響が多大であると推測できる。早急なる現状打開をするための方法をこの会合で見いだしたい。

 旧第一デパート問題の推移及び意見
 開発公社と※伸との売買契約の疑惑(その6ケ月後に協和地所に転売)について東大阪市において、百条委員会が設立され、現在に至るまで永年にわたり審議されている。このいまだ終結をみない審議のため、当該物件の再開発について障害あるのではないかという懸念から商店街から百条委員会に対し、早期終結のための「要望書」を提出する準備をすすめた過去の経緯あった。同時期に「百条委員会」が9月22日に開催されたが、新たな進展はみられず、再度「百条委員会」を開催する予定。なお、開発公社と協伸との訴訟については、現在第12回目公判を迎えているが、双方の判断基準が異なるため、解決までかなり時間がかかると推測される。
 ただし、「百条委員会」は土地疑惑についてが論点であるので、新たな新事実が明るみにならない以上継続が困難であるといえる、市長の答弁が不明確であるということが継続の事由には、なりがたい。また、「百条委員会」終結によって現所有者の協和地所の転売の口実を与える場合が推測できる。協議会は、所有者である※和地所の意向をもって組織されるべきであり、従って、※和地所不参加の協議会は、意味をもたない。また、当準備会においては、※和地所のいかなる代理人も認められないし、欠席した※和地所の真意を疑う。前述の要望書は、趣旨を代え、また行政当局の買い戻し要請も含め検討することが望ましい。

 A上部団体としての意見(東大阪市小売商業団体連合会・東大阪市商店会連合会・東大阪市小売市場連合会各会長)
 協議会設立については、協力する用意があるが、本日の会合に※和地所本人が出 席していないことについて遺憾であり、※和地所が再開発についての裏付けのない以上、協議会が悪用される恐れがある、また転売する可能性が大、主催者側より再度出席要請と今回の欠席について抗議文を提出するよう求める。

 B東大阪市の意見
 ※和地所に対し、現状を踏まえ、行政指導する予定がある。

 C布施駅北部商店街連合会会長意見
 今後、旧第一デパート問題とは別に駅前再開発の問題についても検討する事態が来るであろうが、旧第一デパート問題の糸口が見つからない状況では、連合会として身をいれて対処していく自信がない。
 旧布施第一デパートビル 
昭和40年代後半になって、近鉄布施駅前周辺幹線街路整備事業及び近鉄布施駅高架事業に伴い再開発事業の一環として東大阪市開発公社が、建設したもので、開店当初屋上には遊園地、テナントにはJTB等が入居し、当初は盛大を極めた。
しかし、昭和50年代になって、駅高架下の商業施設ロンモール布施やニチイショッピングデパート(現サティ)が相次いで開業し、商圏が分散した結果、布施第一デパートの設計の陳腐化もあり、求心力を失い年々空き店舗が増大することになり、その経営及び存続が懸念され昭和57年には営業を停止した
その後東大阪市開発公社からとある業者に転売されることになる。
以降商店街は、その再開に向け、様々な運動を展開したが、すべてが不調に終わっている
特に、昭和62年には、商店街が結束して、行政や東大阪市開発公社に対して抗議行動をし、それがマスコミにも取り上げられ、そのずさんな管理が明るみに出た。
平成になってから、我が国は、バブル経済を迎え、不動産に関わる投機が盛んになる。この間布施第一デパートの当時の所有者である※和地所株式会社は、岡山県に開発を求め、結果的にバブル崩壊で破綻する。
以降、この不動産は、×徳相互銀行等、債務者が転々とし、現在は、国の管理下にある不良債権の一部となった。
       平成12年1月 2000年 現在
当時の包装紙図柄
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